柿生の里

 柿が美味しい季節になりました。私の住んでいる周辺には柿の木が多く、多くの実をつけ枝が撓んでいます。

 柿が遊歩道に落ちて来そうです。

 甘く熟した柿は、メジロの好物です。

 黒須田川の遊歩道から、少し脇道に入るとまだ柿畑の田園風景が残っています。柿畑の後ろに見える丘陵は「稲荷前古墳」です。

 10月26日は「柿の日」でした。私が住む家から15分のところに古刹王禅寺があります。2017/10/26のブログでも紹介しましたが「禅寺丸柿」で知られている寺です。10月21日が「禅寺丸柿の日」として制定されています。

 王禅寺には、柿生の里の風情をこよなく愛した北原白秋長歌の碑が、禅寺丸柿の原木の傍らにあります。

 柿生ふる 柿生の里

 名のみかは禅師丸柿

 山柿の赤きみれば

 末房に秋は闌けたる

 もみぢふ散りかふみれば

 いちはやく霜か冴えわたる

 訪れた時には、古木に一つの実が残っていました。静寂でほっとする景色です。

 近くの「王禅寺ふるさと公園」に植えられた木に、まだ沢山の実が付いていました。

 明治後期の記録によると、神奈川県内のおよそ半数以上は禅寺丸柿であったと言われています。(麻生歴史観光ガイドより)

 ここでもメジロが・・・

 白秋は「王禅寺に想む」(『香ひの狩猟者』河出書房)の中で、昭和10年10月、王禅寺を訪ねた時の印象を書いています。王禅寺については、名前も所在も知らなかったが、柿生駅から妻と共に柿を探勝しながら鶴川駅まで歩いたが、方向と王禅寺の名前とを間違い、辿り着いたのが「高蔵寺」であった・・。本堂を案内された後、お茶と柿をごちそうになり、鶴川駅まで戻り、それから自動車で王禅寺に向かったと書かれています。

      *

 先日、柿生駅から高蔵寺まで歩いて見ました。白秋がどこで間違ったかは定かではありませんが、昭和初期の田園風景は、今は見られません。まず小田急線に近い道を選んで南の方向に歩きました。

 古い家には庭木として柿の木が植えられています。

 空き地にも柿の木が植えられています。

 住宅が密集して道路からは高台にある高蔵寺の杜は見えません。鶴見川真光寺川の合流付近で、やっと寺らしい木々が見えました。お寺の杜にしては、少し異常な木々に見えます。それは2022年1月3日午前4時10分出火し、本堂、住居棟、倉庫などが全焼して、寺の裏の大きな木々だけが残されました。

 白秋が「・・渡ると、何か神気が澄みわたる心地がした」という「精進場橋」まで来ると小高い丘にある木々がよく見えます。

 高蔵寺の周囲は、美観地区となっており、畑も手入れが行き届いており、並んだ柿の木には、たくさんの柿が地面近くまで垂れ下がっていました。

 畑の傍に柿の木がある風景は、懐かしい昔の田園風景を想い出します。

 柿畑に囲まれるように「高蔵寺」はありました。当時は茅葺きであったので、白秋は「山柿の寺、さういへば何よりピタとよくはまる」と表現しています。

 境内の紅葉は、まだ色づきは始まっていませんでした。

 本堂は再建中で、白い塀に囲まれていました。

 門を入った左側に、白秋が訪れた時に詠んだ歌が、七首刻まれた石碑があります。

 高蔵寺しづかやと散葉眺めてゐて

 梢の柿のつやつやしいろ

 当時境内には柿の古木が数十本生い茂っていたそうですが、今は大きな老木が1本残っていました。

 境内の小さな柿の古木の傍に・・

 その他に、次のような歌を詠んでいます。

 *寺山や柿の落葉を踏み立つる

  音のみすなり背戸と思ふあたり

 

 *坊が妻筵ひろげて選る柿の

  照る玉赤し庫裏の秋陽に

 

 *風凍みてさびゆく朱の山柿は

  み寺の縁に端居して見む

 

 *あくまでも霜はいたりぬこの柿や

  果のつけぎはに黒きしみあり

 

 *庖丁に垂れりつつ長き柿の皮

  ねもごろ妻が云ひてむきつつ

 

 当時は周辺も柿を中心とした生活で、寺と住民が一体となって生活をしていたそうです。訪れた白秋が住民と一緒に柿を捥いで皮を剥き、縁側で柿を愛でながら、語り合って食べている情景が浮かんで来ます。

       *

 帰りは鶴川駅まで歩きました。途中、渋柿なのでしょうか、熟した柿が路上に転がっていました。

 また枝では落ちずに「干し柿」になってしまった柿も・・

 柿の実が無くなる頃には「柿生の里」も冬の姿に変わるのでしょう。

 柿の蔕黒くこごれる枝見れば

 み冬はいたも晴つづくらし

           「白南風」より

         『北原白秋歌集』岩波文庫

      *

      *