梅雨の季節は蒸し暑く、食欲も鈍りがちになります。この時期には、蕎麦やうどんなど、のど越しがよいものを食べたくなります。
先日の父の日に、息子夫婦から「信州そば」を頂きました。
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蕎麦は、全国各地に有名な蕎麦がたくさんあります。その中の「信州そば」について、江戸時代の漢詩人の柏木如亭は『詩本草』(岩波文庫)の中で「蕎麦は信濃を以て第一と為す。その香味、他州の及ぶ可きに非ざるなり」と書いています。
信濃の蕎麦の美味しさは、早くから知られていたのでしょう。その後も俳人一茶の故郷と絡ませて、キャッチコピーに「信濃では月と仏とおらがそば」という句が使われたりしています。この句は一茶の句ではありませんが、一茶は、こんな蕎麦の句を詠んでいます。
国がらや田にも咲するそばの花
『八番日記』
痩山にぱつと咲けりそばの花
『文化句帖』
国がらと詠んでいるように、この地方は土地が痩せていて、稲がよく育たなかったので、田にまで蕎麦を植えました。それが今では信州自慢の蕎麦となりました。
早速、お蕎麦を頂きました。
器(蕎麦猪口)は、伊万里焼の猪口で食べたほうが、蕎麦のつるつる感があっていいと言われますが、今回は、私の作った土ものの器で食べました。
石臼で挽かれたそば粉を使い、手打ちされた生蕎麦は、削り節の旨味のあるつゆによって、香りが引き立てられ、美味しく頂きました。
蕎麦は五種(甘・酸・苦・辛・塩)の味が備わっており、春夏秋冬、いつ食べても飽きが来ないと言われています。特に、今の梅雨時は、最適な食べ物だと思います。
この蕎麦畑は、2018年9月に訪ねた信濃柏原です。後方の山は飯綱山。
蕎麦の歴史は古く、食べられるようになったのは奈良時代頃からと言われています。主に「蕎麦掻き」「蕎麦餅」などにして食べられていました。
蕎麦粉だけで、お蕎麦にしても形が崩れるので、当初は蒸していたそうです。しかし蕎麦粉のつなぎとして小麦粉を混ぜて、今の「蕎麦切り」となりました。このようにして食べるようになったのは、江戸時代からです。
そして当時の「つゆ」は、味噌をベースにした「味噌だれ」だったそうです。その後、鰹だしのつゆに変わって来ました。
蕎麦は栄養素も豊富で健康食でもあり、日本の食文化の1つとなっています。
この蕎麦猪口は、骨董市で購入したもので口縁に傷があります。
私は古伊万里(孤松の図)?と思っていますが・・その真偽はわかりません。
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「蕎麦猪口」は、形は単純なコップ型で、昔から大きく変わっていません。
この形は、江戸時代では、もともと料理を入れる器で、いろいろな用途に使われていました。蕎麦の普及に伴って「つけ汁」用として使われるようになりました。主に伊万里焼(染付)の猪口が多かったようです。
「猪口」の語源は、朝鮮音の「チョク・チョング」に由来するといわれます。また逆台形の形が、猪の口に似ているという俗説などもあります。
図案(絵柄)には、自然や生活環境の風趣を主題にした図案も多くあります。日常使われる器のため、季節感のあまりない図案や吉祥文などが好まれたようです。
「蕎麦猪口」は、蕎麦を食べるための器だけでなく、日常使う食器として使い勝手の良い器でもあります。庶民雑器の王様とでも言えるのではないでしょうか。
雑器とは言え、骨董市などで江戸時代の庶民生活の象徴的な図案に出会えるのは楽しいものですが、江戸時代の蕎麦猪口は高価で、私たちが気軽に買えなくなりました。
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蕎麦猪口の絵柄(文)は、数えられないほどの種類があるそうです。その中に、ただ雨だれのような単純な図案の「雨降り文」があります。
この雨降り文は、18世紀前半頃に作られた図案だそうです。
雨降り文刷毛目蕎麦猪口
口径:7.0cm・高さ:7.4cm
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余談になりますが、江戸時代からある蕎麦の「諺」に
「親ばかちゃんりん、蕎麦屋の風鈴」があります。子供を可愛がる、親ばかな様子を揶揄した言葉です。
『江戸商売絵図』三谷一馬著・中公文庫
~風鈴そば売り~より引用
この「蕎麦屋の風鈴」とは、当時、多くの屋台蕎麦屋が乱立していて、不衛生な蕎麦屋(夜鷹そばといわれていた)と区別をするために、屋台に風鈴を取り付けました。冬になっても、その風鈴を鳴らしており、そのとんちんかんな様子が、子を溺愛する親と似ていることから、この諺が生れたようです。
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