JOMON(2)

 6月18日は「考古学出発の日」です。

 アメリカの動物学者・エドワード・S・モースによって「大森貝塚」が発見された日を記念して制定されました。

 JR大森駅の近くの線路沿いに「大森貝墟」、300mほど離れたところに「大森貝塚」の2つの記念碑があります。2つあるのは、モースが論文に発掘場所を詳細に書かなかったので、品川区説と大田区説の2つが存在しました。現在、貝塚は品川区側にあったことが分かっているそうです。

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 この「大森貝墟」碑は、1930年(昭和5年)に建てられました。

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 もう一つは「大森貝塚遺跡庭園」にあります。

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 この庭園入口の右側にある手付き土器は、モース著の『大森貝塚岩波文庫の中に載っています。

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 この「大森貝塚」碑は、1929年(昭和4年)に建てられ、上部にあるのは縄文後期の深鉢です。

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 大森貝塚では、縄文中期から晩期にかけての土器が発見されています。

 「縄文」という言葉は、モースが大森貝塚から発見した土器には、縄目の模様があることから「cord marked pottery」と名づけました。その後、日本の学者が「縄文」と訳し定着しました。

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 私の住んでいる青葉区の隣りの都築区には遺跡が多くあります。その数は、横浜で一番多いそうです。その一つに「花見山遺跡」があります。この遺跡は、縄文草創期に作られた土器が発掘されたことで知られています。

 調べてみると、この遺跡は1977年(昭和52年)に発掘されましたが、その後、宅地開発などにより、消滅し遺跡としては残されていません。

 どんな場所だったかを知りたくて遺跡の跡を見に行きました。

 「花見山遺跡」は、川和高校の東側の見花山(これは町名です)にある「かりん公園」付近だということで、横浜市営地下鉄の都築ふれあいの丘駅から歩いて、川和高校方面に向かいました。

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 緑の木々の繁る「ゆうばえの道」を数分歩くと、その先に「かりん公園」がありました。

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 この公園は少し高台にあり、都会を感じさせない静かな場所でした。

 今は遺跡の雰囲気は感じられない、住宅地の中にある普通の公園でした。

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 昔、この付近は村の境界線が入り組んでいたらしい。その境をめぐって争いが起こっており、その争いの中心にあった小高い丘を「けんか山」と呼んでいました。その「けんか山」に「喧嘩」の字を避けて「見花」が当てられ「見花山(けんかやま)」とよんでいましたが、やがて「みはなやま」と読まれるようになったそうです。

 この「かりん公園」は「けんか山」の跡だそうです。

 昭和53年には「けんか山」からも約1万2000年前と推定される土器が発見されています。

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 右側が川和高校で、道路を挟んで新興住宅地が続きます。f:id:kanamankun:20200616194926j:plain

 正面のこんもりとした木々の所が「かりん公園」です。

 この住宅周辺で1万3000年前には「隆起線文土器」を使っていた縄文人が生活していたのです。

 この付近に遺跡の碑か、案内板ぐらいは欲しいと思いました。

 この「花見山遺跡」は、古い地名にちなんで付けられましたが、町名は「見花山」といいます。「見花山にある花見山遺跡」ややこしくて・・迷いそうです。 

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 この「花見山遺跡」からは、隆線文土器の破片1420点、120個体に達する大量に出土しています。単純な形と模様の深鉢形のものばかりです。

 そのうちの3点が「横浜市歴史博物館」に常設展示されています。
 東京国立博物館・平成館には、大小合わせて4点、草創期の土器として展示されています。

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 縄文土器と言えば「火炎土器」のイメージが強いですが、この「隆起線文土器」は質素で目立たない土器です。

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 口が平らな深鉢形で、底は丸く、博物館の説明書によると、厚さは0.5~1cmと薄手となっていました。

 文様は、口縁に沿って細い粘土紐をめぐらし、その下に「ハ」の字文を巡らせています。土器の大きさ(容量)は大・中・小とあり、煮炊き用の「土鍋」として使われていたようです。形は、当時使用していた蔓などで編まれた籠を模したのではないでしょうか。「ハ」の字文は、籠の網代編みの形に似せて描いたのかも?

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 私なりの想像ですが、口縁にある粘土の線条は、呪術的なものではなく、この部分は物理的に破損しやすいので補強の役目をしているのではないか。また籠の編み目を真似したのか?

 煮炊き用に使ったので固定のためか?取っ手の役目をしていたのか?

 底の丸味は煮炊きをするには、熱を効率的に行き渡ります。現在は、底を丸いのは生活用具としては使い難いので制作されませんが、当時、底を丸くすることは技法は難しかったのではないだろうか?

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 私が一番興味を持ったのが、この底の曲線の美しさです。しかも同じ曲線で何個も作られています。丸味は後で削って成形したのかもしれないが、ロクロもなく手びねりで作ることは、それなりの技術と美的センスを必要とします。

 この深鉢の美しい放物線を見ていると、以前、お茶碗の曲線について書いたことを思い出します。

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 土器の模様、その施文方法、焼成方法、粘土(土)の分析などについての詳細な文献は多くありますが、成形技法については少ないように思います。

 最近読んだ本で『アフリカの陶工たち』(森 淳著・中公新書の中に、アフリカの土器成形技法が6つほど紹介されていました。

 この本は、著者が1978年から民俗学の視点でアフリカの伝統工芸の学術調査した様子が詳細に書かれています。

 現在、日本でも行われている手びねり技法などもありますが、行われていない珍しい技法もありました。

 『トーゴのダバオンやマリのバマコのように、すでにできあがっている土器の底の丸味を利用した型作りの技法によって成形する』

 またロクロに近い技法も紹介されています。

 『マリのモプチのように、湿らせた泥の滑性を利用して、回転するロクロ状の鉢の上で、水挽きしながら成形する』

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 AI化で思い通りの形を作れるようになりつつある時代で、これらの技法を使用する人はいないだろうと思います。

 しかし、手作りの良さが求められる昨今、先人たちの知恵から学ぶこともあるのではないでしょうか。

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 この土器は、5年前に制作しました。参考にしたのは縄文晩期頃の注口土器で、縄文が施されていましたが、無文にしてみました。

 「隆起線文土器」は、日本最古級の土器の一つですが、 最近の調査によると「無文土器」や「豆粒文土器」も、最古の土器として注目されています。

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