土雛

 今日は「桃の節句」です。

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 散歩道を少し遠回りして「元石川・花桃の丘」の桃の花を見てきました。

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 3月中旬からが見ごろとなりますが、まだ2~3分咲きでした。

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 世代交代なのでしょうか、樹木が伐採されたり、新しい木に植え替えたりして風景も変わりつつあります。

 2年前の風景を紹介すると・・

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 「ひな祭り」に 飾られる桃の花は、実のなる桃の花ではなく、観賞用に改良された「ハナモモ」という花です。改良が行われるようになったのは、江戸時代に入ってからです。

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 古来、桃は不思議なパワー(厄除け・魔除け・長寿)をもつ仙木・仙果とされており、桃の節句には、女の子の健やかな成長を願って飾られます

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 日当たりのよい土手で土筆を見つけました。

 最近の異常な暖かさに早く目覚めたのかな。しかし痩せていて元気がありません。

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 桃の日や深草焼のかぐや姫

    『七番日記』文化15年3月

 一茶56歳の時の句です。

 52歳で結婚し、文化14年5月に長女さとが出生します。

 可愛いさとに人形のおもちゃを買ってやったのでしょう。

 文化14年正月、江戸にいた一茶は、長男千太郎を亡くしたばかり、さとの誕生を待ち望んで、こんな句も詠んでいます。

 がらがらやピィピィうりや梅の花

             『七番日記』

 江戸の街で嬉しそうな目で玩具を眺める一茶の姿が浮かんできます。

 一茶は「ひな祭り」については、100句近くの句を詠んでいます。

 その大半は子供が生まれてからの句が多く『七番日記』『八番日記』『文政句帖』に記されています。

 特に気になったのが「深草焼」という具体的な焼き物の地名が詠まれていることです。

 『原色陶器大辞典』加藤唐九郎編・淡交社によると

 「深草焼」は山城国深草京都市伏見区)で産れ、古く元暦年間、この地に土器窯があったようで、南禅寺の僧経正が製陶の技術を深草の瓦工に授けたそうです。その後、元和年間に勉幸右衛門によって「伏見人形」が創製され、これが深草にも伝わりました。

 「伏見人形」は土人形の元祖で、全国(90種類以上)土人形は、伏見人形の系統をひいていると言われています。伏見人形は「深草焼」とも呼ばれています。 

 一茶の句の中で「つち(土)」という言葉で詠み込まれたひな祭りの句を拾ってみました。

 土人形もけふの祭に逢にけり

          『七番日記』文化12年

 家並や土の雛も祭らるゝ

          『七番日記』文化11年

 へな土でおつゝくねても雛かな

          『七番日記』文政1年

 土雛は花の木かげにい隠居哉

          『八番日記』文政2年

 土雛も祭の花はありにけり

          『八番日記』文政2年

 へな土の雛も同じ祭り哉

          『八番日記』文政2年

 我こねた土のひなでも祭り哉

       『八番日記』『梅塵八番』文政2年

 文政2年に多いのは、長女さとの誕生から2歳ころに当たります。

 これらの句から「へな土」など粘土を触った人しかわからない感触を詠んだり、「我こねた」と自分で作ってやったりと言っています。土びなについてよく調べていることがわかります。

 土人形は郷土玩具としていろいろな地域にあります。一茶はどこで知って、買ったのだろうか。

 「伏見人形」は、京都を経由する旅人や商人、西国の大名行列などによって各地に伝わったといわれます。一茶の住んでいた、北国街道柏原宿にも、その情報や玩具が伝わって来たとが考えらます。また江戸へ何度も往復している一茶は、江戸や街道の宿場で知ることも出来ただろう。

 50歳で故郷に定住した一茶は、北信濃(長沼・六川・小布施・中野など)に多くの門人が出来、滞在して俳句を指導しています。その中野に「中野びな」があることを知りました。句に詠まれた深草焼の土びなは「中野びな」ではないかと思われます。

 中野市のホームページによると

 江戸時代の文化・文政年間頃

『中野土人形(中野びな)は奈良栄吉(初代)が京都の「伏見人形」を持ち込み、奈良栄吉が自ら作った土人形を販売するようになったことが「中野人形」の始まりといわれています』と記されています。

 また2012年3月23日発行の『北信ローカル』という地域新聞に『一茶と土びな』という記事がありました。

 中野土人形を広く親しんでもらうために、一茶の句と中野土びなを「板画」で融合させた作品集を発刊・販売していることが紹介されています。そしてひな祭りの句が3つ紹介されていました。

花さかぬ片山かげもひな祭り

                              『八番日記』文政2年

雛達ものんきに見ゆる田舎哉

                             『七番日記』文化11年

居並んで達磨も雛の仲間哉

                             『文政句帖』文政5年

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 中野市には、江戸時代化から続く伝統の「中野ひな市」があります。その始まりは、はっきりしないそうですが、言い伝えでは、江戸時代化年間)中野市の街で「ひな人形」が売られたことが始まりといわれています。

 「中野ひな市」(3/31-4/1)では、絵付けなども出来るようで、機会があれば訪ねてみたいと思っていたのですが、今年は新型コロナウィルスの影響で開催を検討中とのこと(3/3現在の情報)

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 散歩の帰りに・・黒須田川のどうだん橋の下にいる「カワセミ雛」に遇いました。以前に雄雌がいるのは知っていましたが・・初めて撮影できました。

 右側の嘴の下の赤いのが雌です。

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 成形を終えた素焼き前の土の花生けです。

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 昨年の「登り窯まつり」で、炎で絵付けをしてもらいました。

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