今回は、茨城県石岡市にある「板敷山大覚寺」の一茶の句碑を訪ねました。
車の数も少なく山間の道路を、のんびりと約15分ほど走ると、大覚寺の入口を示す白い案内板が見えてきました。
その案内板の傍に石碑があり、そこには「人喰橋」と書かれていました。
この石岡市八郷地方には、いくつかの伝説があり、その一つに「大蛇と親鸞の伝説」があることを知りました。
その伝説によると、約800年前、ある農夫の妻が嫉妬心によって人を食う大蛇の身となり、池に棲み付いて近くを通る人を食べ、住民を困らせていました。しかし上人によって大蛇は済度されたということです。その後、人食いの大蛇がいた付近に架けられた橋を「人喰橋」と呼ばれました。今は、その池はありませんが、少し離れたところに蛇塚(念仏塚)の碑が残っていました。
参道の石門を潜り、少し登ると板敷山を背にして白壁が見えて来ます。
「板敷山大覚寺」です。
大覚寺は親鸞ゆかりの浄土真宗の寺です。1221年、周観大覚の創建といわれ、当初は山の方にありましたが、その後、現在地に再建されましたが焼失。現在の本堂は1866年に建立されました。
この寺は「親鸞聖人関東教化中の法難の遺跡」として有名で「山伏弁円と親鸞」の伝承があります。
以前に購入した『筑波風土記~愛憎の峠~』中村ときお著・崙書房昭和49年5月刊にも、その伝説が書かれていました。
その内容は、弁円は親鸞の布教に人が集まり、自分の修験道が寂れていくのを悔しく思い、板敷峠で待ち受けして暗殺しようとしたものの、親鸞の徳さに敬服し、悔悟して浄土真宗の僧侶となりました。峠の一角に弁円懴悔の歌碑があります。
寺門を入り、石段の左側に大きな石がありました。
これが一茶の句碑です。建立は昭和38年で、少し風化して文字は読みにくいですが、歴史の重みを感じさせてくれました。
秋の夜や祖師もかような石枕
一茶『八番日記』
(注)『八番日記』は、文政2年(1819年)から)文政4年(1822年)の3年間の句日記です。
「祖師」とは親鸞上人のことです。「石枕」とは親鸞が枕にした石です。
この句は『八番日記』の文政3年7月に、前書きに「板敷山の麓に臥して」と書かれています。
一茶の家は浄土真宗の門徒であり、一茶にもその影響があり、40代後半から亡くなる65歳まで念仏者の視点から詠んだ句が多くあります。
この句を記した時は、一茶58歳で信州柏原で生活しており、以前に訪れたことを思い出して記されたのかもしれない。
境内には、桂離宮を模した石岡市指定の名勝「裏見無しの庭」があり、回遊式でどこの角度から見ても裏がないことから、この名前になったそうです。
「恨みなし(裏見無し)の庭」とは、弁円物語のシンボルのように思います。
訪れた日は、寒く氷が張っており、美しい花々が咲いた庭園の景観ではなく残念でした。
また本堂の屋根の瓦が、以前は青い瓦だと言われていましたが、今は「いぶし瓦」になっていました。
色は変わっても、その美しい佇まいは変わらないように思います。
山門を出る時、登山道に建てられた風力発電の塔(2基)が、西陽を受けて輝いて見え、時の流れの速さを感じました。
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