陰暦11月19日は、一茶の命日です。
鉾田の工房から一番近い一茶の句碑を、紅葉狩りを兼ねて訪ねました。
山々の美しい紅葉を眺めながら、北関東自動車道路の笠間西ICから板敷山大覚寺に向かいました。この寺には、去年の2月に訪ねています。
長い白壁が穏やかな秋の日差しの中に輝いていました。
京都の桂離宮を模して造園されたという「裏見無しの庭」
前回、訪れた時は真冬で、池には氷が張っていましたが、今回は、美しい紅葉が水面に映し出されていました。
大覚寺は、親鸞聖人が越後国から常陸国に渡られた折に布教の活動を支えた寺院です。また「親鸞法難の地」としても知られています。
親鸞聖人説法石の遺跡と反対側に、木陰の中にどっしりとした大きな石に刻まれた一茶の句碑があります。昭和38年に建立。およそ60年以上が経ち、文字の判別が難しいほど風化しています。
秋の夜や祖師もかような石枕
『八番日記』
この句は『八番日記』に載せられています。『八番日記』は『風間本八番日記』と『梅塵本八番日記』の2つの写本が伝えられています。この句には「板敷山の麓に伏して」と「枕石山」という2つの前書きが付されています。
この「枕石山」とは、親鸞聖人の法弟入西房道円の開基によって創建された「真宗24拝の第15番寺」のことではないだろうか。この寺は、当初は常陸太田市下大門町にありましたが、現在は常陸太田市上河合町に移建されています。
伝承によれば、建暦2年(1212年)雪の夜、教化のために当地を訪れていた親鸞が一夜の宿を求めましたが、道円は断りました。親鸞はやむなく門前で石を枕に眠りました。この行為に感銘を受けた道円は、この寺を「枕石寺(ちんせきじ)」と名づけました。この枕石は、この寺に所蔵されているそうです。
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一茶の奥羽行脚については、資料も乏しく記載されている本は少ないようです。1789年、一茶27歳の時に東北地方の旅に出かけたといわれますが、資料がなく定かではありません。
『俳諧寺一茶』(一茶同好会・明治43年8月刊)の年表によると、27歳の時に奥羽行脚したことは記されていません。
奥羽行脚については
一茶57歳、文政2年「4月16日、奥羽に行脚せむとして善光寺迄旅立手中止す」
一茶63歳、文政8年「奥の松島より出羽の象潟を経て越後を行脚せしは此年秋」
とあります。本文の中にも、訪ねた場所が記されており、前書き「板敷山の麓に伏して」を付して載っています。そしてこの奥羽行脚について「・・中風後に63歳の老体を提げて、遠く東北邊陬まで行脚せる其勇気や、太だ壮んなりと謂つ可き也」と書かれています。
「秋の夜や・・」の句は、一茶がこの地を訪ねて詠んだかどうかは分かりません。浄土真宗の篤信家でもあった一茶が、祖師の伝承を聞いて、その地に材をとって詠んだのかもしれない。
この枕石の伝承は、倉田百三が1916年に創作した戯曲『出家とその弟子』の題材として用いられました。
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