関東鉄道常総線の南守谷駅で下車し、西林寺まで約1kmほどの道を北に向かって歩きました。
この付近は「野鳥の森散策路」があり、この日は暖かな陽気で、いろいろな鳥の囀りが聞こえてきました。
私が最近知った「コジュケイ」は、守谷市の市の鳥でした。見られるかな・・と思いながら10分ほど歩くと、人家の中に真っすぐな長い道(参道?)があり、その先に西林寺の瓦葺きの屋根が見えました。
少し丘陵で、周りが開けた所に「抑護山清浄院西林寺」がありました。
西林寺は天台宗の名刹で、902年守谷市高野に創建され、1691年に現在の地に移されれたと伝えられています。
平将門が立て籠った旧跡ということで「籠山」の名があります。
石門の手前には1697年に作られた地蔵堂があり、この石地蔵は出世地蔵として信仰を集めているそうです。
これまでに本などで紹介されている西林寺は、鬱蒼とした松林の中に大本堂を中心に大伽藍が立ち並ぶ堂々たる構えをしていました。今は、大きな樹木が伐採され、人影もなく閑散としているので少し驚きました。
しかし往時には及びませんが、上野寛永寺の末寺であったためか、装飾や桐紋(五七の桐)などは、寺格の高さが偲ばれます。
一茶は文化7年6月14日、48歳の時、桜井蕉雨(信州飯田出身の俳人)とともに住職鶴老(西林寺第64世義鳳師)を訪ねています。
鶴老と一茶は、同郷で俳諧を通じての親交があり、鶴老の時代には、文人墨客を交えた句会が盛んに開かれていました。
境内は入った左側にある大きなシュロの木の下に、一茶の句碑がありました。
行としや空の名残を守谷迄 『七番日記』
この句は文化7年12月21日、2回目に訪れた時に詠んだものです。
この句が『我春集』では、
行としや空の青さを守谷迄
となっています。
初案は「空の青さ」であったのが、『七番日記』に書き写す時に「空の名残」に直したようです。
金子兜太氏によると「空の青さ」の方が「一茶の心情をよりよく表していると思う」と述べています。『小林一茶<漂鳥>の俳人』(講談社現代新書・昭和55年9月刊)
綺麗に整備された境内には、歴代の上人の墓がまとめられてありました。
1つの台座の上に二基の墓標がたてられた墓があり、その右側が鶴老の墓です。
市の保存樹木に指定された大きな枝垂れ桜は、花の名所として地元では知られています。木肌から見るとかなりの古木で、現在は剪定されて樹形はちょっと寂しく感じましたが、花が咲くと美しいのでしょう。
鐘楼には鐘はありません。供出されたままのようです。
一茶は、9回も、この西林寺を訪れ句会を開いています。
句文集『株番』の中から、お神酒が入った時に「三人上戸」という題吟から詠んだ、こんな句がありました。
前書き~忿(いかり)~
鶯が来ても腹立上戸かな 鶴老
東風吹くや今ほふつたる陶から 一茶
(注)『株番』は、一茶が文化9年の1年間の句文を記したもの
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焼締徳利 高さ:22.2cm
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