今回は、千葉県市川市にある一茶の句碑、2基を訪ねました。
都営地下鉄本八幡駅を下車して地上に上がると、駅前は高層ビルがそそり建っていました。市川市は都心から近く、東京のベットタウンとして発展しているようです。
駅から千葉街道(国道14号)に出で、2~3分歩くと大きな鳥居(一の鳥居)が見えてきました。
参道に入り、京成線の踏切を渡ると「葛飾八幡宮」です。
「葛飾八幡宮」の創建は、平安時代、宇多天皇の勅願によって勧請された社で、武神として崇敬されました。
一茶の句碑は、市指定の文化財である「隋神門」の少し離れた道路の傍にありました。斑アオキの木に囲まれた句碑は、平成2年4月に建立された新しい句碑でした。
冬木立むかしむかしの音すなり 『我春集』
この句は、一茶の『我春集』にあり、文化8年11月、下総馬橋の大川立砂の13回忌に詠まれた13句の中の一つです 。
寛政10年10月10日頃、立砂とともに紅葉狩りに来た時、葛飾八幡宮を訪れ、この地の歴史に触れたことを懐かしんで詠んだのでしょう。
(注)『我春集』は、文化8年(一茶49歳)の1年間の発句、連句、随想等を記したもの
本殿の東側には、樹齢1000年を超えると言われる天然記念物「千本公孫樹」がありました。一茶たちが訪れた時も、この公孫樹はあったのでしょう。
参拝の後、真間の弘法寺に向かって、車の往来の激しい千葉街道を歩きました。
途中から街道を離れ、京成線に沿って歩くと静かな佇まいの住宅の庭や街路樹にクロマツが目に付き、普通の住宅街の景観とは少し異なっていました。かなり樹齢の古い木もあるようです。
千葉街道沿いの南北1km周辺は「市川砂州」と言われ、6000年位前の縄文時代には海の底でした。1000年位前に砂州が陸地になり入江ができました。その砂州の上にクロマツが群生し防砂林となりました。それが現在でも市街地に残っており独特の景観となっているのです。
この景観は万葉の歌に「真間の入江」として歌われています。
一茶(41歳)も『享和句帖』(享和3年10月20日)で、次の歌を詠んでいます。
かつしかや真間の入江にさちあれと
柳ながめてのせぬ舟人
京成線は、砂州のちょうど尾根筋を走っているそうです。その市川真間駅から真間川に向かい、文学の散歩道から浮島弁財天を訪ね、真間川に架かっている手児奈橋を渡りました。
この入江橋の先に見える小高い丘に「真間山弘法寺」があります。
その参道の途中に朱色をした「真間の継橋」があります。今は橋の下には川は流れていません。かっての橋の存在を示すモニュメントとなっています。
当時、この辺は、入江と砂州がひろがっており、砂州から砂州へ掛け渡された橋が幾つもあり、それを橋とみなして名がつけられたのでしょう。
この橋は真間の象徴として「万葉集」にも詠まれています。
「手児奈霊神堂」は、真間に所在した伝説上の女性手児奈が祀られた霊堂です。
「真間山弘法寺」は、737年に行基菩薩が手児奈の哀話から、その心情を哀れに思われ「求法寺」と名づけて建立し、その後、弘法大師によって「弘法寺」と改称されました。
江戸時代には紅葉の名所として知られ、多くの人が訪れています。
一茶もその一人でした。
仁王門の仁王像は、運慶作との伝えがあるそうです。
一茶の 句碑は、この仁王門の右側にありました。
真間寺で斯う拾ひしよ散紅葉 『我春集』
この句は、葛飾八幡宮の句と同じ『我春集』にあり、大川立砂の13回忌に詠んだ句の中にあります。
13の句の最後に「墓の前にて手向心の十三句也。人に聞すべきものにもねば、草葉の陰に穴をほりていひ入ぬ。」と記されています。
祖師堂横のしだれ桜(伏姫桜)は、樹齢400年です。一茶も立砂と一緒に眺めたのでしょう。
「かってグリーンベルトに名物の三本松があったが、昭和33年に切られてしまいました」と『市川自然観察ガイドマップ』に書かれていますが、街路には新しいクロマツが植えられていました。
今回、市川市を訪ねて、市街に溶け込んだクロマツ、変化に富んだ地形による自然の景観。街道沿いの古い寺社、古墳など・・残されている歴史風情。万葉集に詠まれた真間。文人ゆかりの地として文学作品にも描かれる市川など。
市川市の古代の地理、風土や歴史と文化を知る、よい散歩となりました。
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