民芸陶器で人間国宝に認定された「濱田庄司」の生誕の地を訪ねました。
東急田園都市線溝の口駅の南口を出て、1分ほど歩くと、駐車場の傍に、濱田庄司の生誕の碑がありました。
碑の意味は「陶匠は跡を留めず」
この碑の裏側のホテル付近に生家がありました。
生誕地からJR南武線を渡り、大山街道を多摩川方面に歩き、街道から少し入ったところに「宝隆寺」があります。
山門の左に見えるこんもりした所が津田山(もともとは七面山)です。
この場所は濱田が、少年の頃に良く遊んだところで、その山の麓の宝隆寺に濱田庄司の墓があります。
山門の傍に碑がありました。
「宝隆寺」から5分ほど歩くと「大石橋」です。
「大石橋」は、大山街道を横切るように流れる「二ケ領用水」に架かっています。
「二ケ領用水」とは、1611年(慶長16年)完成された人工用水路です。
約400年前の用水路沿いは、今も綺麗に整備されており、水は透明で魚の姿が見えるほどです。
昭和27年ころは、この用水で染物を作っていました。
この用水路の上流には、昭和16年に作られた久地円筒分水(登録有形文化財)があります。
円筒分水とは、送られてくる水の量が変わっても、分水比が変わらない装置です。
現在の円筒分水です。
この二ケ領用水路に架けられてるいるのが「濱田橋」です。
この「濱田」と名前が付いた橋は、平成4年6月に濱田庄司の業績を讃えて建立されました。また小さい時に水遊びをしたのに因んで名がつけられたと言われています。
欄干には、濱田のよく描いた「唐黍」の絵が取り付けられています。
この作品は、昭和48年に制作された「柿釉赤絵角皿」です。
この図柄は、1938年(昭和13年)制作された「赤絵丸文角瓶」から抜粋したのではないかと思います。
濱田庄司のやきものには、「唐黍」の絵が繰り返し描かれています。
なぜ「唐黍」の絵ばかり、繰り返して描いたのだろう。
盟友の柳宗悦は『濱田庄司の仕事』(『窯にまかせて』濱田庄司著・日本経済新聞社刊)の中で
『・・只の反復ではなく、描く一つ一つが新鮮な意味を現すに至らん。故に反復し乍らも反復がない。私は之を「即今紋」と言ふが、それは「永遠の今」に活きる紋の謂となって、同一であって而も同一でなく、何れにも活き活きした創造がみられるのである。・・」「・・之れを東洋的表現で「圓境紋」と呼びたい・・』
と書いています。
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この大石橋を渡ったところに、父の営業していた「大和屋菓子店」がありました。
この写真は栄橋の交差点にある案内板より引用です。
右側の建物が「大山街道ふるさと館」
現在は案内板があるだけです。
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橋の芥つゝつき流る春日哉
一茶 『文化句帖』
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朝鮮唐津手付花入
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