7月7日は「川の日」です。国土交通省が平成8年度から定めています。
その理由は、7月7日は七夕伝説の「天の川」のイメージ。7月が河川愛護月間。季節的に水に親しみやすいということで、この日が制定されました。
古来より稲作を行ってきた日本人は、河川と密接に結びついた生活をして来ました。そしてこの繋がりは、様々な芸術や文化を生んできました。しかし多くの恩恵をもたらす一方で、洪水氾濫などで人々の生存を脅かす存在でもあります。
横浜市河川部発行の『横浜の川』パンフレット(2020/3/6)によると、横浜市を流れている河川は、大小様々な支川を含めると56の河川があります。その中で「幻の水系」とされている川が載っていました。
その川は、磯子区の久良岐公園付近を源流として、磯子・海の見える公園付近で根岸湾に注がれている「禅馬川(ぜんまがわ)」です。昭和54年に河川の役目を終えて水系そのものがなくなりました。今は道路や下水道となっています。
『岡村の今昔』2008年12月刊によると、この禅馬川は、磯子区の岡村地区の人々に豊かな暮らしをもたらして来た川でもあります。その川に架けられていた「竹の橋」の欄干が残っていると記載されています。
先日、この遺構を訪ねました。根岸駅から歩き、禅馬川の河口近くの産業道路から上流に向い「竹の橋」付近をめざしました。産業道路から暗渠となっており、その上に赤いレンガを敷き詰めた道路となっています。暗渠工事が始まったのは、昭和22年頃だそうです。
道幅は広くなく、両側に住宅やマンションが建ち並び、ここに川が流れていたという面影はありません。このレンガ道を通り、国道16号線を越えると、禅馬川の周辺の人々の生活を支えていた「浜マーケット」があります。今も昭和のアーケードの姿が残っていました。
起伏のある道路に空気弁の蓋がありました。『岡村の今昔』によると、この暗渠の中を歩いたという小学生の話が載っています。
岡村4丁目付近は、細く曲がった道路が入り組んでいました。
その道路の傍に赤い碑がありました。「竹の橋」のあった場所で、平成30年頃までは石の欄干が残っていましたが、現在は赤い遺跡碑が建てられ、石の欄干は撤去され綺麗に整備されていました。
当時の橋の名板が、そのまま柱に埋め込まれています。
暗渠になる前は、この付近には、いくつかの橋が架かっていました。「竹の橋」碑から数十メートルほど上流に行くと、かなり古い標語柱(横浜市)も残されています。この柱の近くに住んでいるご主人の話によると、昭和30年代頃までは、この付近では蛍が飛んでいたそうです。
河口付近から岡村4丁目まで歩きましたが、川の流れは見えませんでした。曲がりくねった禅馬川は、今は生活道となり、その川に沿って家が建てられ、当時の川の面影はほとんどありません。
根岸駅前には、大きな絵が展示されていました。「祖父たちが語る根岸マップ」と書かれています。30年前の卒業生が製作したそうで、根岸駅周辺の様子が分かります。
『岡村の今昔』には、禅馬川で遊ぶ子供たちの写真があります。添え書きに「この川で、子供達は魚やサワガニを取り、暑い夏には水浴びをし、大人達は作物の泥を洗い、洗濯をし、年末には張り替える障子を流れに浮かせ、水を汲上げ、道に打ち水をしました。」と、当時の生活の様子が描かれています。
私の少年時代も川遊びは、楽しい思い出の場でもあり、多くのことを学ぶ場でもあったように思います。
河川は、人間社会のありようや環境問題などとともに変わっていくのでしょう。しかし生活の基盤と繋がっていた水系がなくなることによって、そこに住む人たち自然体験、交流・癒しの場、また水辺の生き物たちの棲息の場もなくなって行くのは、本当に残念です。
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私の家の近くに黒須田川が流れています。生活用水として活用されていませんが、川の周囲には、緑の木々があり、周辺住民の憩いの川となっています。
黒須田川では、時々釣りをする親子を見かけますが、川に入って水遊びは出来ません。出来るのは鳥たちだけです。
スズメ
カラス
水風呂へ流し込だる清水かな
一茶『八番日記』
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