今日、5月の第2日曜日は「母の日」です。
「母の日」は、日頃の母の苦労に感謝をする日で、この風習は、第二次大戦後に、アメリカから伝わりました。
この黄色い花は「ハハコクサ(母子草)」と言います。
庭、道端、野原、公園など、至る所で見られる草花です。
名前の由来は、いろいろな説があるようで、葉や茎が白い綿毛を被っている様子から、母親が子を包み込むように見えるという説が一般的だそうです。
植物学者・牧野富太郎博士によれば、茎の白毛が、ほおけ立っているので「ハハケル」と呼ばれ、母子の字が充てられたと言われています。
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小林一茶は、3歳の時に生母を亡くして、継母に育てられました。
しかし継母とは確執があり、いい思い出は少なかったようです。
一茶が「母(生母かどうか?)」を詠んだ句としては『文化句帖』に
木がくれに母のほまちの青田哉
(文化元年6月・42歳)
母恋し母恋しと蝉も聞ゆらん
(文化6年5月・47歳)
が見られます。
それ以降は『七番日記』に、次の句を詠んでいます。
亡き母や海見る度に見る度に
(文化9年3月・50歳)
亡き母への想い、心情を強く感じさせる句です。
特に母親を表現した句は『八番日記』(57~59歳)の中に多く見られます。
そんな句を『八番日記』の中から探して見ました。
母の日や壁おがみつつ小夜ぎぬた
鳴しかも母や恋しき小夜ぎぬた
母人や丸て投る手本餅
渋いとこ母が喰いけり山の柿
母の分始にくぐるちのわ哉
母馬が番して呑す清水哉
歩んよ歩んよ歩んよや母を日傘哉
母親にさしかけさせる日傘哉
母親が涼がてらの針仕事
子の母や涼がてらの賃仕事
母親と同じ枕の手足かな
母親を霜よけにして寝た子哉
母の分つめば用なき茶山哉
よは声は母の砧と知れけり
いつの時代でも、母親が子を思う気持ちは変わりません。
結婚して子の親となり、母親の姿をみつめながら、亡き母の姿を重ねている一茶が浮かんできます。
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親子陶人形
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「母」の思い出について喜寿を過ぎると、大切な思い出も遠くに霞んでいくようです。
父が戦死してから、母は生活のために働いていたので、母と出かけことも少なく働いている姿が強く残っています。
又、母は手芸、編み物が趣味で、編んだセーターをよく着せられるのが嫌でした。
しかし50年以上前に編んだ毛糸の厚手の靴下は、今も残っています。
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