11月19日は、小林一茶の命日でした。
この日に群馬県高崎市にある一茶の文学碑(句碑)を訪ねました。
新町駅は、旧中山道の「新町宿」に入ります。「新町宿」は、中山道の一番最後に出来た宿場で日本橋(江戸)から11番目となります。
次の浮世絵は広重が描いた『木曽路道六拾九次之内「新町」』で、絵の中の川は温井川で、左の富士山に似ている山は赤城山です。
この新町宿の風景を見ると、この辺りは寒村で中山道が開かれると町並みが出来て賑わいました。落合村と笛木村を合併して出来た新しい町ということで「新町宿」と呼ばれました。
この川は弁天橋から見た、現在の温井川です。ここから本庄宿に向かって旧中山道を歩きました。
数百メートル歩いた所に、一茶が泊まった旅籠高瀬屋跡があります。
昭和49年9月に取り壊され、今は駐車場になっていました。そこに文学碑が建てられています。旅籠の壁には客や遊女の落書きが残っていたそうですが、無くなってしまい残念です。
この文学碑には、一茶の『七番日記』の原文が書かれています。
1810年(文化7年)5月11日雨、故郷の父の墓参で帰る途中、烏川が増水のため川留めとなり、旅籠高瀬屋に泊まりました。夜中に突然に起こされ、専福寺の世話人から常夜灯を建てるための寄付を頼まれます。はじめは断りましたが、何度も頼まれるのでしぶしぶ12文払いました。
その時に詠んだ句が3句あります。
手枕や小言いうても来る蛍
とぶ蛍うはの空呼したりけり
山伏が気に喰ぬやら行蛍
3句とも「蛍」が登場しています。専福寺の世話人が持っていた提灯を、蛍に見立てて詠んだのでしょう。
一茶は「蛍」の句を200句ほど詠んでいます。しかし碑の3句は、むっとしたのだろうか、恨みっぽく、気にいらない気持ちが表現されています。
その後の一茶の行動を辿ってみると、18日には故郷柏原に入りますが、家には帰らず知人宅で1泊して、江戸に帰ってしまいます。それは父の遺産相続で家族ともめていたからです。その時の心境を「故郷やよるもさはるも茨の花」と詠んでいます。
この帰郷の旅は、家族問題を抱えてイライラしていたのでしょう。
10年後の『八番日記』には、よく知られた句「大蛍ゆらりゆらりと通りけり」と、のんびりと飛んでいる蛍を詠んでいます。
これが旅人たちの寄付により再建された(文化12年)石作りの「見通し常夜灯」です。これは復元された神流川橋の常夜灯です。
*
高瀬屋跡からの旧中山道は、狭い道路ですが車も少なく静かで、道に沿って神社やお寺が並んでいます。当時は本陣をはじめ40数軒の旅籠屋が軒を連ね賑わっていたのでしょう。八坂神社には、当時の柳茶屋の賑わっている様子が描かれていました。
少し歩くと旧道と国道17号が合流します。一転してここからは自動車が溢れ喧騒な世界に変わります。この灯篭も復元されたものです。
この浮世絵は英泉が描いた「本庄宿・神流川渡し場」で、本庄宿から新町宿に向かう風景です。右下にある灯篭が「見通し灯篭」です。渡し場の後方には日光男体山、上州赤城山、榛名山などが見えています。
国道17号線の交通量の多さには驚きです。今も東京との物流往来の重要な幹線となっています。
当時は、この山並みを渡し舟から眺めたのでしょう。
今はJR高崎線の車窓から眺めます。
川では、のんびりと鷺(ダイサギ?)が餌を漁っています。
神流川橋を渡った「本庄宿」側にある復元常夜灯です。
この広々とした川原が、1582年(天正10年)に滝川一益と小田原北條氏が戦った場所です。今は新しい橋が建設中です。
神流川橋を渡った袂に、古びた古戦場跡の説明板がありました。
再び旧道(392号)に入ると一里塚跡があり、ここが日本橋より23里になります。
新しい橋の建設と道路工事によって、車の砂埃が舞い上がる中に、1800年建立の庚申塔と3基の石塔が遠慮がちに立っていました。
今回は時間に余裕がなかったので「本庄宿」まで行けずJR神保原駅までとなりました。
初めて中山道を約5kmほど歩きましたが、時代とともに中山道の風景は大きく変わり、これからも変わって行くのでしょう。しかし遺跡や古刹、曲がった旧道、そこから見える山々の景色には、まだ当時の風情を感じさせてくれました。
次回はもう少し距離を伸ばして中山道を歩いて見たいと思います。
人は旅見なれし草や秋の露
一茶『文化句帖』
*
*