先日、公園の一画にある山桜の木が伐採されました。
この公園は、黒須田川の傍にあり1979年に整備されました。 近年、公園の周辺の交通量も増えて来ていますが、静かで近隣の人たちの憩いの場でもあります。私も散歩の途中に休憩場所としてよく利用します。
さくらさくらと唄われし老木哉
一茶『八番日記』
園内には少年野球場があり、休日には家族連れが目立ちます。
園内の樹木は、植えられてから40年以上経っており、昨年から伐採や剪定が実施されています。園内には、山桜が25~26本ほどあります。半年間前から、こんな張り紙がしてありました。
この張り紙がある一画には、大きなヒマラヤ杉が2本ありましたが、園内への見通しが悪く、防犯上問題があるために、昨年伐採されました。
今回は、3本並んでいる山桜の1本が、歩道にまで伸び、倒れた場合は危険であるために伐採されます。人命と交通の安全を守るために伐採されるのですが、大きな古木がなくなるのは寂しいものです。
「さまざまの事思い出す桜かな」という芭蕉の句があります。こんな高尚な思い出ではありませんが、公園で過ごした人には、懐かしい思い出があるのではないでしょうか。
春は、満開の山桜を背景に元気な子供の写真を撮ったり、夏は、覆われた葉の陰で涼んだり、幹にいる昆虫を親子で楽しんだり、秋は、葉の美しい紅葉を眺めたりと・・
街路や公園の樹木の伐採は、周囲の安全を考慮して一気に切り倒さないで、細かく刻んで切られます。
この日は寒く、電動のこぎりの甲高い音が、更に冷たい音に感じました。
残った切り株は、最長の径で70cmほどありました。
この切られた山桜の木は、どう活用されるのだろうか。
宮大工の西岡常一さんは、木は「立木のうちの命と 材になってからの命と二度の命をもつものだ」と言っています。
桜材は、やや硬めの材質で、木目が細かく、硬い割りには感触が良く、木の温もりがあります。身近な箸やスプーンから家具や内装材などに幅広く使われるそうです。
運ばれていく山桜、どんな新しい命となって、私たちの生活の中に戻ってくるのだろうか。
作家で随筆家の高田宏さんの本『木のことば 森のことば』(ちくまプリマー新書)の中に「生存運」という言葉があります。高田さんによると
「枯れてゆく木や草はほかの木や草と争って、その競争に負けたのではなく、生きのびる運がなかったのだと・・「生存競争」の代わりに「生存運」という言葉を使いたい」と書いています。
この「生存運」という言葉を借りるなら、切られた山桜は、生存競争に敗れたのではなく、人々を守る(被害を与えない)という「生存運」によって生き延びることが出来なかった。木が植えられた位置や場所によっては、生存競争ではなく、何らかの理由で、いのちを失う木々が生れてくるのでしょう。
木も生き物です。桜の木は、長命であると言われます。切られていく山桜の姿を見て、本来の寿命を全うして欲しかった。
高田宏さんの『祈りの木』(高田宏著・阿部幹雄 写真・飛鳥新社)というエッセイの中に、こういう一節があります。
「・・かっては伐採直後に株祭りを行なっていた。切り株にその木の梢を立て、山の神様に感謝の言葉を唱えるのが「株祭り」である。」「伐採」より
銘木や神木などが伐採された時の写真(株祭り)を見たことがあります。しかし通常は、木は簡単に伐り倒されるだけです。株祭りまでは望みませんが、木の命への畏敬を失いたくはありません。
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残された2本の山桜の木。
春には、きっと美しい花を咲かせてくれるでしょう。
山桜皮を剥がれて咲にけり
一茶『句稿消息』
園内には、多くの切り株があります。
これは御幣ではなく、新しい若木です。老木から若木への循環が始まっています。
老木も同じくわか葉仲間哉
一茶『文政句帖』
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