前日は、空模様が怪しくなってきたので、
早めに野尻湖湖畔の宿に入りました。
野尻湖は芙蓉湖とも言われ芙蓉の葉のように
多くの岬が入り組んだ地形をしています。
野尻宿は、信州の北端にあります。
一茶の時代、この野尻宿は俳句が盛んで、一茶の門人も多くいました。
朝早く、山間特有の大粒の雨が、湖面を叩きつける音で目が覚めました。
周りの山々は霧雨に包まれて見えず、琵琶島だけが浮かんでいました。
この島は琵琶の形に似ていることから名づけられ、弁天様が祀られています。
昨日は、雨と暗雲で湖の周りがよく見えなかったのですが、
カーテンを開けると目の前に句碑が・・
その句が情景にぴったりなので驚きました。
*
*
今日は雨のため、車を使って句碑を訪ねました。
野尻湖はナウマン象の発掘の地として有名ですが、
今回は博物館には訪れませんでした。
国道18号線沿いのナウマンゾウの親子像から
湖畔の側道に入り数分走ると江戸初期に新田開発のために
造られた溜池(大久保池)がありました。
ここから見渡す黒姫山は絶景で、映画のロケ地となっているそうです。
残念ながら雨と霧で、その絶景は見ることができませんでした。
けふからハ日本の雁ぞらくニ寝よ (『七番日記』)
また国道18号線に戻り、大きな刃物と書かれた看板が目立つ
「黒姫物産センター」に行きました。
センター内には、伝統工芸士による「信州打刃物」が展示されています。
庭の蝶子が這えば飛びはえば飛ぶ (『浅黄空』)
午後には、やっと雨も上がりました。
柏原仁之倉にある一茶の母くにの実家・宮沢家の跡を訪ねました。
旧宮沢家の大きな茅葺屋根の家屋は、平成の初めまで残っていましたが、
今はきれいに整地されていました。
句碑は大正12年に建てられ、台石は黒姫山の溶岩です。
この地で一茶は産湯を使ったとされ、
後世に「胞衣塚(えなづか)」が建てられました。
その「胞衣塚」は、この場所から少し離れた所に移され、
この場所には説明板だけでした。
移された「胞衣塚」は、説明板の写真を引用させていただきました。
一茶の母の実家の近くにある仁之倉神社を訪れました。
めでたさもちゅう位なりおらが春 (『おらが春』)
*
*
み佛や寝てござっても花と銭 (『八番日記』)
*
*
信濃町古間にある信濃小中学校の校庭。
(平成24年4月・長野県下初の施設一体型小中一貫校となる)
そよげそよげそよげわか竹今のうち (『文化3年〜8年句日記写』)
*
*
今回、どうしても訪ねてみたい場所がありました。
陽も傾き始めていましたが、車を走らせました。
目的の場所は、牟礼駅から60号線を善光寺方面に走り、
数分走った小高い丘を上ったところの三本松交差点(飯綱町平出)です。
三本松は通称で、もとは「行人塚」で、ここに植えられた松は
江戸時代から旅人の目印となっていました。
この三本松の峠から眺める信越五岳は、江戸への道中で
一番景色のよい所と絶賛されました。
樹齢200年と言われた先代の松は枯死し、昭和26年に
新しく植え変えたそうです。
三本松
句碑は夏草に覆われていましたが、
この場所は、江戸に奉公に行く一茶と父とが別れたところです。
15歳の一茶に、父は
『 毒なる物はたうべなよ。人にあしざまにおもはれなよ。
とみに帰りて、すこやかなる顔をふたゝび我に見せよや。』
『父の終焉日記』(岩波文庫)より
この言葉に、一茶は涙をかみしめて別れました。
そして『父の終焉日記』は、この句で終わっています。
父ありて明ぼの見たし青田原 (『父の終焉日記』)
*
*
この『父の終焉日記』を思い出しながら、
暮れ始めた三本松に別れを告げて、帰路につきました。
*
*
*
2日間でしたが、一茶の郷・信濃町中心に一茶の句碑30基ほど訪ねました。
一茶の句碑が建てられている場所は、神社、寺、公園、学校、駅、銀行など公共施設、
そして一般民家と、さまざまな生活の場所に建てられていました。
懐かしむ句碑としてではなく、
現代生活の空間の中で、俳句の新しいモニュメントとして
愛しみ、楽しむ信濃町の人たち。
その人たちの心の中に一茶は、永遠に生き続けていることを
強く感じました。
『おとなしく留守をしていろきりぎりす』
*
*
*