句碑散歩(14)

 今回は、千葉県我孫子市にある一茶の句碑を訪ねました。

 一茶の『文化句帖』によると、文化3年(1806年)2月、布川に逗留した後、江戸へ帰る途中に「子の神大黒天(延寿院)」を参詣したことが書かれています。

 その「子の神大黒天」に、JR我孫子駅から歩き20分ほどで着きました。 

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 高台にあり、当時は手賀沼の景色が見渡せたのでしょう。

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 「大黒堂」には、たくさんの大黒天が祀られていました。

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 一茶の句帖には「我孫彦子権限詣 神木大柊」と書かれています。

 この柊は、伝説によると源頼朝脚気にかかった時、白ネズミに乗った翁が現れ、柊で足を祓うと治ったといわれる霊木のことです。

 それから「子の神大黒天」は足腰の病に効験があるという信仰が広まり、多くの参詣者で賑わったと言われています。

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 この境内と隣接して我孫子市内を代表する「子の神古墳群」の案内板がありました。

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 県道8号線を渡り、急な坂を上ったところに我孫子市役所があります。

 玄関の傍の小さい庭の植木の中に一茶の句碑がありました。

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 名月や江戸のやつらが何知って  

             『出典不明』

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 この句は、出典が不明、そして建立された時期も不明です。

 一茶の句なのか?

 出典が不明なのに・・・どうして句碑が建てられたのでしょうか。

 『一茶の抵抗』小嶋孝三郎著(『論究日本文学』第6号・1957年3月刊)によると

『江戸人の非都会的なものに対する極端な軽蔑を、長年受け続けていた一茶の、地方人的意識による烈しい反発とみられる』と書かれています。

 当時、江戸の人は、江戸に出稼ぎに来た信州人を「ムクドリ」と呼んでおり、一茶は大変嫌な思いをし、それへの抵抗もあったのだろうか。

 我孫子市民は、地方文化の再評価と情報発信を高めるために、この句を選んだのではないかと思われます。

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 市役所から県道8号に戻り、国道356号沿いにある「最勝院」に向かいました。

『七番日記』 の文化7年3月29日に、最勝院のことを書いています。

 「 高之山村に、

   四国廿七番の観音うつして

   参詣有。是を新四国道場といふ。

   庭に大桜あり。」

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 最勝院の山門

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 本堂と大師堂(右)

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 「 庭に大桜あり」と書かれており、この大樹の陰で旅の疲れを癒したのでしょう。その大桜は枯れ、今は綺麗に整地されており、その面影はありませんでした。

  当時はこんな風景だったのでしょう。

  御仏もこち向給ふ桜哉  『文化句帖』

  山桜花の主や石仏    『七番日記』

  石仏風よけにして桜哉  『八番日記』

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 その後,JR天王台駅に向かいました。

 我孫子には、多くの有名な文学者が住んだことがあり、また陶芸作家のバーナード・リーチの碑もあります。

 再度、訪れてゆっくりと散策してみたいと思います。

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