今回は、中山道の「戸田の渡し」を中心に、残されている旧中山道を辿って戸田公園駅まで歩きました。
JR浮間舟渡駅からスタートして戸田橋に向いました。
駅の近く浮間ケ池(浮間公園)の水鳥たちが迎えてくれました。
「キンクロハジロ」
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水鳥のどちへも行ず暮にけり
一茶 (『享和句帖』)
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「ミコアイサ」
「オオバシ」
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おちつきに
ちつと寝て見る
小鴨哉 一茶
(『一茶自筆句集』)
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駅から10分ほど歩くと舟渡氷川神社(十度の宮)に着きます。
荒川は、名のとうり「荒ぶる川」で、昔、よく氾濫し被害を与えていました。
神社の石祠が洪水で何度も流されても、この地に戻ってきたので「十度の宮」と言われています。
この神社のすぐ傍が荒川の土手です。
河川には、ゴルフ場やサッカー、野球場が広がっています。
江戸時代、荒川は江戸防衛のために橋が架けられていなかったので、人々は舟によって荒川を渡っていました。
「戸田の渡し」は、中山道の第一宿場である板橋宿と次の蕨宿との間にある渡しで、交通の要所でした。
一茶は、寛政3年(1791年)4月10日、郷里の柏原に帰る途中に、この戸田の渡しを渡りました。(『寛政三年 紀行』より)
(注)『寛政三年紀行』は、一茶(29歳)が3月26日、江戸を発って4月18日 郷里柏原に帰るまでの二十余日間の紀行です。
(戸田橋の案内板の浮世絵を引用)
浮世絵に描かれた、当時の荒川を渡る舟の様子です。
戸田橋から東へ13mほどの所に渡船場跡の石碑があります。
この「戸田の渡し」は、明治8年5月に廃止されています。
今でも残っているのは、渡船場跡から北に約200mほどの中山道の道筋です。
当時の名残がある「水神社」「地蔵堂」を経て、国道17号を歩きました。
一里塚跡と思われる場所付近(川岸三丁目)のガードレールには、渡船のレリーフが取りつけてありました。
(注)一里塚とは、江戸時代、旅行者の目印として一里ごとに設置した塚で、樹木が植えられました。
絵は浮世絵の絵と同じものです。
国道17号から旧中山道の道筋が残る下前公団通りを歩き、戸田公園駅に向かいました。
戸田公園駅の東口緑地の中に、一茶の紀行文の石碑がありました。
当時の中山道の様子が書かれています。
一茶は15歳で故郷を離れ江戸に奉公し、14年ぶりの帰郷でありました。
『寛政三年紀行』に
「・・父母のすくやかなる顔を見ることのうれしく、めでたく、ありがたく・・・」
久し振りに故郷へ帰る一茶の気持ちが書かれ、父母に逢える喜びが伝わってきます。
紀行文の最後は
門の木も
先ずつゝがなし
夕涼
という句で終わっています。
この句は、柏原の実家跡の句碑となっています。
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短い距離ですが、歩いてみて交通量の多いことに驚きました。
当時も人々の往来は多かったのでしょう。
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戸田公園駅東口の緑地公園には、戸田南小学校の生徒の作品が展示されていました。
舟に乗っている人物は、一茶ではないだろうか。
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