湖東焼

 昨年の世田谷の「ボロ市」で赤絵金彩の小皿(12cm)を購入しました。
牛を引く牛飼いの顔と躍動感のある牛。
 この精緻な絵に魅かれて買いました。

     

 残念ながら口縁が欠けているので「金継ぎ」をしました。 

 

 赤絵に金文字で

     馬者歩速雖
     有躓
     牛者歩遅雖
     無躓

  と書かれています。

 裏側の側面には「笛」と「鎌」が描かれています。


       

 笛と言えば、大河ドラマ『おんな城主直虎』で
亀之丞(井伊直親)が愛用していた「青葉の笛」が印象に残っています。

 この絵は、彦根の昔話か、歴史的な事柄と関連しているのでしょうか。

     

 また銘には「湖東」と書かれています。
 「湖東」とは、琵琶湖の東岸のことで、この湖東の城下町彦根では
幕末の一時期に彦根藩井伊家の藩窯があり、幻の名窯ともいわれる
「湖東焼」が焼かれていました。
 染付の他に色絵、金襴手、赤絵金彩や青磁などの逸品がたくさん作られました。

 現在、湖東焼は再興されていますが、
この小皿が「湖東焼」であるのか、どうか?
 その真偽は、定かでありません。

 以前、湖東焼について書かれたの歴史小説『藍色のベンチャー幸田真音
を読んだ記憶がありました。
 今回は、改題された『あきんど 絹屋半兵衛(上・下)』(文春文庫)を、
もう一度読み直してみました。

 改題されたように、この本は歴史経済小説
幕末の激動の時代に、近江商人たちと焼き物職人たちの
生き方、考えなどの葛藤を、多くの歴史的な資料をもとに
詳細に描かれています。

 半兵衛(古着商)は、染付磁器の魅力に憑りつかれ、
文政12年、自ら窯元となり、苦心して窯を作り、
高い品質の焼き物つくりに励みます。
 その焼き物つくりの難しさに苦闘しながら、精緻な図柄で
緻密な絵付をした湖東焼独特の味を完成させました。
 しかし井伊直亮の時に、藩窯として召上げられてしまいます。

 井伊直弼の時代になると諸国から職人を招き「湖東焼」に力を入れますが、
桜田門外の変で、直弼が斃れた後、世情不安となり藩窯は閉鎖され、
それ以降は民窯として存続しましたが、明治28年閉窯となりました。

 直弼は「宗観」という号をもつ茶人でもありました。
生きていたら、湖東焼の名品がもっと生れていただろうと思います。

  著者の「あとがき」の中に

「・・こうした素晴らしい日本の宝物は、近江や京だけでなく、
 日本のいたるところにまだたくさん埋もれているはず・・ 」

 ということが書かれてあります。

  この小さな小皿が、その一つであれば・・・
  淡い希望を抱いています。

    *

 一茶が「牛」を詠んだ句では
春風や牛に引かれて善光寺(七番日記)」が良く知られていますが、
『享和句帖』では、「しぐるるや牛に引かれて善光寺」と
上五が「しぐるるや」となっています。

 赤絵金彩の小皿を眺めていると、この句が浮かんできました。

   牛の子が旅に立也秋の雨   (七番日記)