句碑散歩(8)信濃2

 今回は、信濃町柏原を通る国道18号線(旧北国街道)に
沿って諏訪神社から大久保道の入口(信濃町交番)まで
句碑を訪ねて歩きました。

 「柏原宿」は、野尻と古間の間の宿場になります。
南北の土手の内側に52軒分の伝馬屋敷と、
街道の中央に用水と松並木が作れていました。
 その松が一本、今も信用金庫の庭先に残っていました。

   我宿は朝霧昼霧夜霧哉 (八番日記)


 柏原の鎮守の森、諏訪神社寛永11年に創建。祭礼の時は、
奉納相撲や村芝居などが行われ、近在の人で賑わい、一茶も見物に来ていました。

   この句碑は、文政12年に、一茶の弟や門人たちによって建立された
  最初の句碑です。
   当初は句碑は、柏原宿の入口に建てられていましたが、
  明治10年、諏訪神社の境内に移されました。
  
   

    松陰に寝て喰ふ六十余州かな (七番日記)

 諏訪神社から数分歩くと、昭和32年に国の史跡となった土蔵(一茶終焉の地)
と弟(弥兵衛)の屋敷があります。
    


 文政10年、柏原の大火で母屋を焼かれ、残ったこの土蔵で、
一茶は65歳の生涯を終えました。

 茅葺屋根の家は、弟(弥兵衛)の屋敷で、平成12年に復元されました。

   門の木もつつがなし夕涼 (寛政三年紀行)



     八十二銀行の駐車場
    

     ゆうぜんとして山を見る蛙哉 (七番日記)

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 宿の中央付近から戸隠山への分岐点の道標があります。
明暦三年の道標で、信濃町では最も古いものです。

    道標「戸隠山道」
    

 天気が回復して来たので、田圃の畦道を散策しました。
起伏のある田圃は、収穫を待つ稲の黄金色が満ち溢れていました。

 碗を伏せたような重量感のある黒姫山
その山の名は、黒姫というお姫様の秘話伝説が由来とか。
 また 黒姫山入道雲がかかると、その後雷雨になる
という言い伝えがあるそうです。


道租神の後ろに黒姫山


蕎麦畑の後ろに飯綱山


黒姫山は、その美しい姿から「信濃富士」とも呼ばれています。


しなの電鉄

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    信濃町役場の入口
   

     日本の外ケ浜迄おち穂かな (七番日記)


信越病院の入口

   涼風の曲りくねって来たりけり (七番日記)


柏原宿本陣跡は標柱だけです。


信濃町郵便局の入口

   やせ蛙まけるな一茶これにあり (七番日記)


 明專寺は一茶の菩提寺です。
句文集「おらが春」には、明專寺の出来事が書かれています。


明專寺
     
      6才弥太郎と刻まれていますが、一茶が少年時代を思い起こして
     作ったと言われています。

     我と来て遊べや親のない雀 (おらが春)



 柏原には「信州鎌」の鍛冶屋が数多くありました。
この野鍛冶住宅(旧中村家)は、長野県の有形民俗文化財となっています。
 残念ですが、屋内の見学は出来ませんでした。

     

      朝霧に野鍛冶がちり火走るかな (寛政句帖)

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    民家(柏原・若月光男家) 
   
    
       あらましは汗の玉かよ稲の露 (だん袋)
     


「村の鍛冶屋(小学唱歌)」の歌碑の傍にも句碑がありました。

左が歌碑
     

       陽炎やきのふは見へぬだんご茶屋 (文化五・六年句日記)

信濃町交番

      うまそうな雪やふうわりふうわりと (七番日記)



 家並みは新しくなり、通過する自動車が主役となった柏原宿。
ほとんど旧街道の宿場の面影はありませんが、訪ねた句碑を読むと、
往時の暮らしや雰囲気が伝わってきました。

 句碑が暮らしの中に自然に溶け込んでおり、
随所に、今でも町民に親しまれている「一茶」が
見えるようでした。

 まだ訪ねたい句碑は沢山ありますが、
12基を訪ねるのがやっとでした。

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 次回は、黒姫駅周辺の「一茶ストリート」を訪ねます。


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