句碑散歩(7)信濃1

 今回は、念願の小林一茶の故郷・信濃町柏原を訪ねました。
汽車にするか、車にするか、迷いましたが、
初めて訪れる地なので移動を考えて車にしました。

 当日は、秋雨前線による不安定な天気でしたが、
高速道路を約330km走ること4時間半。
一茶の時代には考えられない速さで「北信濃」まで。

 信濃町は、豪雪の地「山の中の町」。
もう少し鄙びた感じだろうと思ったが、街道の交通量の多さには驚きました。
もともと北国街道は、北陸諸藩の参勤交代や佐渡金山からの金銀の輸送など
交通の要所であり、往時も賑わっていたのでしょう。

 18号線(北国街道)を取り囲む五岳と起伏のある田園風景。
今は、蕎麦の花と稲の黄金色が美しく、自然の恵みが溢れる町でした。

 雪が降る頃になると「ほちほちと雪にくるまる在所哉(七番日記)
という情景になるのでしょう。

 酷寒の冬のくらし、春を迎える悦び、四季折々に巡る自然の変化が
一茶の作風に与えた影響は大きかったでしょう。

 「国がらや田にも咲かせるそばの花(八番日記)
 綺麗な白い蕎麦の花をみて観光客は愛でますが、
 一茶にとっては、白い花を見ると、冬がやってくる、
 つい雪を連想したのでしょう。
 「信濃路やそばの白さもぞっとする(七番日記)



左が黒姫山(2053m) 右が妙高山(2454m)

雲に半分隠れた飯綱山(1917m)

 信濃町には100基以上の一茶の句碑があり、2日間では無理なので
限定して訪ねました。

 最初は「一茶記念館」と小丸山公園の句碑です。

「一茶記念館」は、信濃町ICから近く、高台にある近代的な建物です。
昭和35年9月に一茶終焉の土蔵が国史跡に指定されたのを記念して
開館され、平成15年4月に新館がオープンしました。
 地元の民俗資料を展示している民俗資料棟が併設されています。


左が民俗資料棟

  

     
      入口の一茶の木像

     やれうつな蠅が手をすり足をする (梅塵八番)



記念館の前の句碑(後ろの山は黒姫山
   

     九輪草四五りん草で仕廻けり (おらが春)

    (注)サクラソウ科の多年草
       初夏の山間部や湿地に生え、紅紫色の花を輪生する。
       名前は輪生する花を五輪塔の九輪に見立てている。

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小丸山公園(黒姫駅から歩いて約5分)

 この公園の中に俳諧寺、一茶の墓、一茶に関連した俳人などの句碑があります。
秋には、紅葉が綺麗だそうです。
 見晴しのよい高台でしたが、雨上がりの雲に覆われて眺望は出来ませんでした。

 小丸谷公園を少し上ったところに、一茶150年回忌(1951年)を
記念して建てられた句碑があります。

    

      是がまあつひの栖か雪五尺 (七番日記)

    



童謡の碑「一茶さん」には

   われときて遊べや親のない雀 (七番日記)

俳諧寺(一茶俤堂)は、明治43年一茶を慕う人たちによって建てられました。


    

      初夢に古郷を見て涙かな (寛政句帖)



天井には、ここを訪ねた著名な俳人の揮毫があります。


俳諧寺の裏に一茶家の墓があります。

   一茶の墓

    

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 翌日、一茶記念館で講座を聴きました。
参加者は町民が多く、県外者の聴講は数名でした。

 演題は「若き日の一茶」。講師は、俳人の大谷弘至氏です。
 一茶の青年期の資料はほとんどなく、分からないことも多く、
興味のある講座でしたが、特に新しい資料の紹介はありませんでした。
 話は、若い日の一茶を知るには、3つの旅、みちのくの旅(奥羽紀行)、
柏原への帰郷(寛政三年紀行)、西日本への旅(西国紀行)。
 この旅が、一茶の生き方、考えに大きく影響したという。
特に松山の俳人栗田樗堂の影響が大きく、後年の宗教観にも繋がっているという。

    (注)栗田樗堂(1749-1814)
       江戸時代の俳人で、松山の造り酒屋の三男。
       樗堂と一茶は、お互いの人柄にひかれ
       樗堂の作風が、一茶の作風に大きく
       影響したと言われています。
 
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 次回は、柏原宿を中心に18号線(旧北国街道)に沿って句碑を訪ねます。

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