神奈川県に、一茶の句碑は3つあるそうです。
その一つ、ペリ―来航の町・浦賀港周辺を歩き、專福寺を訪ねました。
浦賀駅前の交差点には、地元の中学生が描いた
ぺりー来航の大きな絵が迎えてくれました。
浦賀港は、昔の華やかな賑わいはありませんが、
面影を随所に残した静かな港町でした。
これまで約1000隻にのぼる艦船が造られた浦賀ドック跡です。
明治32年に建造されたドライドックなど塀越しに見ることが出来ます。
*
*
まず駅から歩いて10分ほどの所にある「郷土資料館」を訪ね、
一茶に関連する資料を調べました。
当時の様子が多少分かる本がありました。発行が古いので絶版かと・・・・・
しかし、地元の書店(金文堂信濃屋書店)にありました。
『近世浦賀の文化史』川島孝平著・浦賀古文書研究会・昭和54年11月刊
近世浦賀は、海路交通の要という環境風土に恵まれ、俳壇は大いに賑わい
200人ほどの俳人群が活躍し、その勢いは江戸の俳壇にまで
及んだと記載されています。
この「信濃屋」について、店主に話をお聞きすると、
ペリー来航以前に信濃から来て、ここで本などを販売されていたとか。
大変に古い本屋さんでした。
大正4年には『浦賀案内記』という本も発行されています。
浦賀は、江戸時代には、小田原の次に栄えていたと言われています。
奉行所が置かれるなど、人々の集まる交流の場所でもあったのでしょう、
江戸から俳人を迎えて句会を開くなど、
俳句(一茶)との繋がりを強く感じました。
その後、 西叶神社を参拝し「浦賀の渡し」から西浦賀に渡り、
山の麓にある「專福寺」に向いました。
專福寺は、浦賀駅から歩いて17分位の所にありますが、
江戸時代の御座船をイメージされた愛宕丸で浦賀湾を渡りました。
この渡しは、海で隔てられた東西の浦賀の人々が行き来する生活路で
約300年の歴史があるそうです。乗船時間は約3分ほどです。
この渡船は、水上の市道(2073号線)になっています。
一茶は、15歳で故郷信州を離れ江戸に向いました。
その後、二十歳までの暮らしぶりは、ほとんど分からないのです。
『文化句帳』によると、文化3年6月1日に、一茶(44歳)は、
金谷から舟で浦賀に渡り、專福寺を訪れたことが書かれています。
それは、天明2年6月2日に17歳で亡くなった
一茶と深い関係のあったといわれる女性(名前は寿さん)の菩提を弔うためです。
一茶(当時19歳位?)が句会の席?で知り合った初恋の人とも言われています。
夕立の祈らぬ里にかかるなり 一茶 (『文化句帖』)
*
*
*
*
*