下総を歩く(3)

 今回は、旧江戸川傍の行徳駅から常夜燈、中川船番所跡、
大島稲荷神社、愛宕神社そして一茶旧居跡まで、長い距離を歩きました。
 
 行徳は、戦国時代から最大の塩の産地でありました。
幕府が行徳を天領にして保護、奨励し、塩を江戸へ輸送するために
水路小名木川、新川を作りました。
 駅前には、当時の様子が陶板で紹介されています。
 寛永9年、江戸小網町〜行徳間(13km)に航路の海運許可がおり、
「行徳船」が運行され、多くの人が利用したようです。

 船着場跡には、今も「常夜燈」が残っています。
 

 
 この辺りは、一茶が生活していたところ、
行徳船に乗り、房総などに旅をしたのでしょう。

 

 中川船番所は、江戸に入る船の取締検問のために番所を置き、船の出入りを監視しました。
番所跡は、中川船番所資料館から約50mのところにあり、明治維新まで存続しました。
 資料館の年表によると
『1791年(寛政3)小林一茶が行徳より江戸へ戻る途中で中川番所を通過する』
と記載されています。

  

 江戸幕府が最初に作った運河である小名木川は、全長約4.6kmあり、一級河川です。
この川は江戸の発展に大きく寄与し、物資の輸送だけでなく、成田山鹿島神宮
参拝する人で賑わったようです。
 現在、川沿いは綺麗な遊歩道になっています。その傍に大島稲荷神社があります。
 一茶の句碑はなく、看板だけでした。
 句で詠まれている愛宕山とは、この神社の隣りにあったそうです。


 

  水売りのいまきた顔や愛宕山   (八番日記)


   

 大島稲荷神社と離れた、大島2丁目にある愛宕神社は、
一茶が仮住まいしていたという説もあります。
 境内には、よく知られた句碑がありました。


  雀の子そこのけそこのけ御馬が通る    (文政2年 八番日記)


 その後、JR両国駅に向かって歩きました。
水路竪川(上は首都高速7号線)に架かる二の橋の傍に
一茶の住居跡がありました。

     

 「文化句帳」(文化元年)によると
   「十月廿一日 晴 家財流山ヨリ来」
  と書れてあり、この日に引越して来たのでしょう。
 今は喧騒な大都会ですが、当時は竹が茂った静かな場所だったようです。
 1804年から5年間ほど住んでいたそうです。
 引っ越した時に、次の2句が詠まれています。

    見なじまぬ竹の夕やはつ時雨

    寝始る其夜を竹の時雨哉





 朝鮮唐津耳付花入 高さ:17.2cm